昭和46年11月1日  朝の御理解



御理解 第12節
「神に会おうと思えば庭の口を外へ出てみよ。空が神、下が神。」

神に会おうと思えば、神様の働きを特別に感じようと思えば、私は今日はそういうような意味で聞いてもらいたいと思います、ね。神に会おうと思えば庭の口を外へ出てみよ。空が神、下が神。まあ、お道で言う天地金乃神様という方は、あー、天地金乃神様という神様は、ね、もう(おちょうしょう?)みたいに、いうなら(へんまん?)しておられる神様。

 だからもうそこに、んー、見るものそこに神様、聞くものそれが神の声としてまあ、聞いてよし、見てよし、というわけなんです、ね。ですけども、それはま、そこまで、あ、なるほどとわかりましても、その働きを、いうなら働きとてもです。あのー、あたくしどもがこうやってお生かしのおかげを頂いておるという、その事実という、事実を申しましても、神様のおかげなしにはあたくしどもがそこに1分間だって実は生きられないわけなんですよね。神様の御恩恵によくしなければ、1分間だって、30秒だってそれは、あー、生きられません、ね。

 神様のおかげを頂く事によって、お生かしのおかげ、しかもそれは神様が粋なこの差し入れとでも申しましょうかね。吸う息吐く息、もうその事だって、神様のいうならばお許しを頂かなければ、神様が自由自在に(座って?)おられるんだ、と。そういう事実をですね、えー、あたくしどもが実感する。そこに、えー、まあ神様の働きを知ると、まあそうゆうた意味ではなくてですね。

 本当に神様っちゃござるとはござるじゃろうかと言う人があります。いうなら、御利益とかおかげとかと言うけれども、本当にそういう頂けるもんだろかと、ね。その神様をあたくしどもが日々心に抱きつづけるというか、ね、そういう神様と共にいつもあらなければ、信心の、おー、妙境というものは開けてまいりません。ただまあ、観念的にわかった神様では、ね。しかし、空が神、下が神。天地そのものが言わば、神様のお姿だと。

 その神様が、えー、最後、もう動きを握っておられる。それで、そこに神の声を聞き、そこに神の姿を見るといったような事でもありますね。たとえば、あー、あたくしに接して来る人、またはあたくしにものを言うてくれるその人、だから、その人を神様と頂いて、それぞれ言うておることを神様が言うござるなあと、頂いて良いのです。

 大体、そう頂けるような信心をさして頂いたら、いよいよ素晴らしいのです。あれが言いよるのじゃなくて、神様が言いよる。「お前馬鹿じゃねえ」と例えば言われてもです、ね。あの人があたくしに馬鹿と言ってるのじゃあない、神様があたしに馬鹿と言いござる、と、頂けるような信心ですね、いうなら。だから、えー、そういう意味で、いわゆる、お道の信心で言う神観。

 どういう、なにを観と見ておるか、感じておるかというが、外へ出てみなさい、外へ出て仰ぐ所の大空、言わばたいち、そのままが神様のお姿ですよと説明する事が出来るわけです。もうその天地の働きそのものも、神様の働きですよ、ということが言えるわけですけれどもね。

 あたくしどもはそこにやはり、まあ信心して御影のあるを不思議とは言うまじきものぞと、仰るその、不思議な御影に触れて初めてですね、いうなら神様の働きをそこに見たり感じたりする事が出来る、ね。そこに、えー、信心さして頂きます者、信心者の、まあ特権とでも申しましょうかね。特別に与えられる信心の妙境があるわけであります。

 神に会おうと思えば、ね。神様の働きをそこに感じようと思えば、どういう事にならなければならないか、ね。昨日、久留米の(さださん?)が昨日の朝、お届けをなさっておられました。あちらの、まあ、食料品の問屋さんですけれども、その組合長をしておられる方が、あー、70歳かで、昨日、一昨日ですか、亡くなられた。

 今までかつてそんな事は無かったんですけれども、その方の判をどうでも頂かなければならないことが(さださん?)のお店であった。わざわざそこを訪ねて行かれるような事も普通は無い、初めて、まあ、行ったと、判をもらいに行ったと、こう言うておられますが、その判をもろうとかんと大変後で困る事がある。

 だから、まあ昨日、月末でもありますし、そこへ判をもらいに行かれた。そして、判を押してもろうて、帰ってみられたら、その後に、ころっとその方が亡くなっておられた。ね、例えば、生きる差し入れでも神様の自由自在というか、いわゆるここに神様が、(さださん?)を中心に働いておられるという感じがいたしますね。

 もしその方がおられない間、会えなかった、その奥さんでは困る事情があった。やっぱり、その本人から判をもらっとかなきゃならないんです。もうそれからもうすぐに、もうお食事というてから、お家の方が、あのー、食事の仕出しを行って帰った時には、もう、冷たくなりかけてござった、というようなですね、まあ人間のこの寿命の不思議さというかね、(生死?)ということが、生きる死ぬということだって、神様のおかげを頂かなければ出来る事じゃありませんけれども、ここまで信心をさせて頂いておるものを中心に神様が働きなさるんだという事を感じますですね。

 恐れ入ってしまう、日頃の信心ですなあというてから、あー、話した事です。そこで、あたくしどもが、そういう例えば、神様のそれこそ一分一厘の間違いなさ、しかもそれが人の命にという大変な、あー、その、おー、事柄を通してです、そこに、天地の働きをまあ、感ずるわけですけれども、ね。あたくしは日々の日常生活の上に、そういう神様を感じる生活、心から。それには、真心になれ、真になれ、実意丁寧になれ、と言われるわけであります。

 ですから、えー、神に会おうと思えばというが、本当に神様に会おうと思えばです。いや、本当にその神様の働きに会おうと思えばです、ね、その手立てというのは、真心になる事であり、真になる事であり、ね。実意丁寧になる事であり、または一心をたてる事であり、まあ色々言えるでしょう。

 神様の働きというものを、真に成就せんことない、成就せん時には真が欠けたと悟れと仰るような真を追求していく事、ね。いわゆる、真心で例えば思うことがです、真で表されるという、そこには、あたしは神様に会うことができる、神様の働きを言うならば、そこにはっきり、おかげを見ることが出来るということです、ね。

 ほんとに神様に心を向けさしてもらうという事、ね。ほんとに、えー、神様に純粋な心で向かうという所に、もうほんとに、それは言わば、不思議な働きをそこに感ずる。そういう不思議な働きを感じんとあたくしどもが神様におうた気がしない、ね。感じん(ときぞと?)今申しますように空が神、下が神です、ね。

 いうならその神様の働きを頂かなければ、あたくしどもは生きることすらが許されないと言う事実を、まあ、わかりましてもです。やはり、えー、それだけでは、あたくしどもが有り難いとかいう感謝の生活をさしてもらうということは出来ません。信心しておかげを受けてくれよ、と仰るように、信心する事によって、その神様の働きを表す事ができる。いや、その神様に会う事ができる。神に会おうと思えば、神様の働きに会おうと思えば、あたくしどもが一心にならなければならない、素直にならなければならない、純粋に、ね、真にならなければいけない、真心にならなければいけない、ということになるわけです。

 昨日、初めて、(あいての年上の方?)、昨夜こちらで、あのー、おそうまで信心の話を聞かれて、えー、夕べ泊まられてから今朝御祈念に出て来ておられますが、神様っちゃそういう純粋心というものにおかげ下さるんだな、と思うんです。昨日聞かしてもらって、なるほど、さもあろうと思いましたね。

 例えばの、池田さんが(?)連れて参って来ておられるわけですけどね、「おかげの泉」を何回もこう、繰り返し繰り返し、あのー、まあ、読みたくない時もあるけれども、それはやっぱ、まあいうならば、読む事を修行と思うてという事になるんじゃないでしょうか。読みたくないばってん、やっぱ神様の事じゃから読もうという気になる。

 そうするとそこにですね、切れ目切れ目というですかね、えー、昨日その事お届しておられましたが、んー、例えば、あー、その、おー、それを読みよる間は誰も尋ねて来ないけれども、読み終わった途端に人が尋ねて来るとか、下からご飯ですよとかと、きりが不思議に、それを、そういう事を不思議に最近感じられるようになったわけですね。

 今日も朝、あの、教典の100節を全部読み終わった時に、おばさんが今夜は、あの、まあ例えばご飯ですよ、と例えば言われたとか、もう邪魔をするものがない。それをですね、非常に不思議に感ずる、ね。あー、これは信心の、神様の事が書いてある本だ。(という意味じゃなくて?)とだからというて、いうなら読む事がいうなら、楽しいとか、ありがたいとかっちゅうわけじゃないけれども、ね。

 やはり例えば、まあはっきりどうっちゅう事はないけども、まあ今回これまで(?)修行と思うて読もうといった事じゃないでしょうか。そういう気持ちになっておるとちょっと切り目きり目を読み終わった時に、次の用事があるといったようなね。まだもっともっと、具体的な、あー、もの、あのー、体験があるでしょうけども、そういう意味の事を昨日、お届けしておられた。

 もう何年も前からここに(ぐるぐるが?)でけて難儀しておられる。それがですね、そういうその、まだ治ってきた事がないのですよ。それがここの口の中からごろっとするものがあるけれども、じゃ出したところが、こんくらいばっかの石が出てきたっち、この口から。そしたら、ここがねようなった。だからこれはまた(いしが?)あっとじゃなかじゃろか、また出来るっちゃないやろかと心配しよるけれども、もうおかげで今は出来んっち。

 まあそういう、いうならば不思議な働きをね、そこに、神、いわゆる神様にそこでおうてござるわけである。だから、信心にはそういう一つの純粋さというものが必要なんです、ね。昨日、もう初めていうならお参りをして来て、信心の話をそれこそ、(よる?)あたくしどもが、あー、1時半頃休ませて頂きましたけど、まだその頃まで一生懸命電気がついてましたから、信心話を若い人達ばっかしでしよったようでございました、ね。

 だから、神に会おうと思えば、純粋な心になれ、素直になれという事も言いよるわけです、ね。考えたいと思えば、眠たくなかっても、やっぱり修行と思うて読ましてもらうと言ったような、あー、あたしくは、例えばいうならおかげの泉を読ませて頂くでもです。そこに、はあ不思議なこっちゃある、その本が読み終わった時にこういう用事が起こってくる。その途中でそこをおかされる事がない。

 やっぱ神様の働きと言わずにおられんといったようなものを、まだ迷ってもこん、ただ池田さんから時々信心の話を聞くだけで、そういうようなものを、そこに神様を感じておる、ね。そこに、不思議だなあという、思われるような霊験も現れてくるわけです、ね。だから、それをだんだんお互いの場合はです、ね。その純粋な心をもって、言うなら真とは、真心とは、と、その真心、真を追求して、真心の真の生活、それを、しかも実意丁寧に生活の上に頂いていこう、現していこうと言うような信心から、あたくしは神の働きをそこに、実感として感じることが出来、神のそういう働きに会う事が出来る、ね。

 「神に会おうと思えば庭の口を外へ出てみよ」というのでなくて、今日は、「神の働きに会おうと思えば、庭の口を外へ出よ」じゃなくてです、ね。自分の心を開いていかなければならない、ね。それも、いうなら思うとりますだけじゃいかん、思うておる事を現していくというような、生き方。

 あたくしは昨夜、高橋さんと話した事ですけれども、んー、ほんとにあのー、あたくしの思いなら思いというものが、皆に通じるとか通うとかとこう、あたくしが一生懸命思いよることをぴしゃっと、要するにまあキャッチしてくださるような、あー、おかげを頂かなければいけんですね、ということを、あー、話した事でした。

 昨日あたくし、(すぎえさん?)と高橋さんに昨日朝から少し、いー、そうすっと昨日の朝の御理解を見落としますと、どんなに万力のここに働きがあっても、神様の働きがあっておっても、ね。いわゆる、あの(じゃっき?)例をもって話しますとですね、けれどもそれをちょっと引くか押すかしなければ、その万力の働きをそこに現す事は出来ないということ。

 そこに万力があっただけでは、ね、そこにじゃっき、じゃっきがあっただけでは、ね。それをちょっとここ、ここやって動かすだけで、いうなら重い自動車なら自動車でも、こうやって持ち上げれるというような力になるのであって、ちょっと、今日は教会には行けない。その事から、あたくしは感じましてね、昨日(すぎえさんと?)高橋さんに少しばかり、押したり引いたりしました。

 あんたたちももうほんのごて、例えば今度の結婚式の(長男の?)結婚式の事なんかでも、教会の行事としてからあんた(がた?)すると言いよってから、なーんも出来んじゃないのっちゅう(ごつ?)、あたしがあれも頼みこれも頼み、ここに浮かんだ事をもう用件がたくさんあるとは、こうやって言うとるばってん、その一つだって、成就していかないんじゃないの。

 いや、事実を言うたら、(また?)高橋さんと、おー、(すぎえさん?)の場合なんかはもうここ2、3日毎日かかりきりのようにして、まあいろんな準備をして下さってあるわけなんです。それでもあたしが、気付いておる所のあそこ、あれもこれもという事は一つもしよらん。これはそればってんその、やっぱり、委員長が、委員長がばんと上におって、そして、ああしてくれこうしてくれ、とああもしろとこう言わなければ出来ないと、もうそういうとこもあろうけれども、ね。

 例えば、思とるだけではいけん、それを実行して表さなければ、はかどりゃせんし、いー、というてまあそんな事を申しておりました。まあどうしてもこういうなら、今度その、まあ委員長、それは(まさきさん?)でしょ。あたくしはよくそれを知らんわけですよ、実際は、(じゃのぶえのことです?)、ね。だから、そのー、委員長が下手と言えばまたは、あー、秋永先生とか(まさきさん?)とかという、そういうその、ここで、えー、上から指図をしてでも、お願いができれる人が(さしちがって?)細々しい所はあたしが考えよるような事を考えてもらわなければ、あたしは出来んがっち。いうような、話をしておりました。

 そしたら昨日、あのー、青少年の、おー、育成会の会合が、あー、原鶴の、おー、(かみげんで?)ありまして、きのうやっとおそう秋永先生たち兄弟が帰ってきた。してから、あたしの話教話したら、あたしね先生今日は(かみぜん?)でですね、夜信心の話をしよる中にね、もうしきりに心の中に思い当たって来る。あたしはそんな事を今日、おー、(まえまえ?)しよる事を言うたとか、何とかじゃ全然知らんとですよ、ね。

 あたしね、これは、結婚、今度の若先生の結婚式の事やらなんかでも、これ誰かに任せとっちゃいかんと、これは自分があれこれ思うとる事を(はい早速?)実行に移さにゃいかんなともう、こうしきりに思うたとこういうんですよ。だから、それをあたくしは、高橋さんと「今日はあたしがあんた達に話した事を秋永先生にはもう伝わっとるね。」というてあたしはびっくりしました、ね。

 というようなものがですね、通じ通わなければいけません、ね。いわゆる、言われっでしてからしたんじゃつまらんと(あたしは思う?)心に思うとるばってん、形に表さないと、真心であろうばってん、真で表さんなら、なかったら、そこに神様を感じることは出来ん。これは実行に移さんならんと思うただけでも、いうならあたくしと秋永先生の例えば昨日あたくし朝、「あなた達そげなことじゃいかんよ」と言うた事を秋永先生があたしから言われんなりに、それをしきりに、他の事に行っておりながら、その事をしきりに考えたとこう言うんです、ね。

 そう言う、ものが通い合う通じ合うということもありがたいけれども、まあその、思うとる事を実行しなければいけないと思うこと、そして、実行しなければです、そこに、神様を見ることは出来ん、神様に会うことは出来んということなんです、ね。お互いがほんとによい信心を頂きたいと思う。いうなら、そういう信心とはどういう事かというと、ただ、器量がよかっちゅうだけではいかん。

 例えば、歌舞伎役者なら歌舞伎役者で申しますならです、タイプはええ、ね。けれども、演技がまずい、声が悪い、ね、台詞だけはもうほんとに素晴らしいけれども、タイプが悪い。あの人はもう、目だけはもう見せんでっちゅうぐらいに、えー、そのぎょろぎょろしてござるという役者がある。だから目だけじゃいかん、やっぱ口元もなからないかんというようにですよ、(せんりょ?)と言われるなら言わば声もタイプも演技も揃わなければならない。

 あたくしどもも信心を目指さしてして頂くならばです、本当によい信心を頂いて、よいおかげを頂きたい、と思うならです、ね、その全てを身に付けていかなければいけない。真心で思うたことを、ね、それぞれに実際かたくなにせっせと表して行くという事。それが、真である、真心である。そこからです、ね、そこから、そこに生きた神様の働きを感じる。

 いうなら、そこに、ほんとに生きた神様を見ることが出来る、ね、ほんとの神様をそこに、あたくしは生み出さなければ、ためにはただ今申しますようにね、一心を立てて神様へ打ち向かう。そしてそこに、神様の働きを感ずる、または純粋に、神様を頂こうとする姿勢には神様がもう純粋に、神様の働きをはっきり(言えば?)見せてくださるという事を、今、今日初めて参って来た信者の方の例を持って申しますとね。

 いわばお互いの場合はもうこうやって、10年20年と信心を続けさして頂いて真とは、真心とは、というような事はもう十分に分かってるはずと、信心や真、真心をこう、おー、凝視して行く生活。実意丁寧に、または、信心の筋金になれなければいけないという事は皆様が、よう知っておることなんです、ね。だからその知っておる事をです、例えば御大祭の時には表すけれども、結婚式の時には表せれないといったような事があるもんか、ね。

 (10日に?)綾部家の例えば祝賀会をするというて、それこそたくさんの方ですから、毎日毎日変動してきた、ああもしとかにゃんこうもしとかんならんといったような事をただ誰かに任しとるだけでよいもんか。ただ、(はなむけ?)だけ持って来ればもうそれでよいというような事ではない、ね。お礼を申し上げたからそれで良いという事ではない、ね、それが出来るまでも、準備と言う、例えば障子貼るなら、障子貼るでもそう。

 これだけのたくさんの障子を貼りかえると言うて昨日、(つつみ?)先生が言われたばってん、「あなた達が1人や2人で出来る事ではなかってだからもうしてなかったらせんでよか」って、ね。とまあ、あたくし昨日申しましたがですね、誰かしよる誰かしよるといったような事で、ほんとに何事にも信心になれよと、言われておる。大祭の時にあれほどの打ち込みができるのに、ね、もうまあだ結婚式にはまあ5日もあると、いうような事じゃない、もうそれ前、5日も前にちゃんと準備が完了しとかにゃいかんと。

 「あれも注文してくれ、あれをやっとってくれと言うてもいっちょも実行して表せれんじゃないか」と言うて、昨日(あたくしは?)、側におるので、一生懸命(いわば、いうなら?)働いておるのです(しげおさんと高橋さんは、?)けれども、そこに今日なんとかというて、まあ昨日はその、万力の、だから少し引いたり押したりする事によってです、ね。もう万力の働きというものが、感じられるのが秋永先生がしきりにそれを思うたと、こう言う。

 今度は自分がもう委員長でもなからなければ、何でもないから、と例えば思うとったかもしれん。けれども、何と言ったって、信徒会長としてこりゃじっとしておられんぞ、こりゃ実行に移さにゃいけんぞ、としきりにそれを思うたとこう言う、ね。という事は、もう既にあたくしは少し(枠を?)こうやって動かしたから、万力の働きがそこに起こって来よると言う事になる。

 しかもそれは、なるほど表された時にです、初めて神様の働きと(姿?)が1つになってです、もうほんとに神様の働きっちゃ、一分一厘間違いのない事ねという体験を頂くのは、いうなら秋永先生の場合のなら秋永先生がそれを感ずる。そこに、神に会う事が出来、神を見る事が出来るのである、ね。

 いうならば、ね、大祭なら大祭と同じような心持ちで、皆さんが祈ってくださる、思うて下さる、ね。または、御用の上にそれを表してくださる、という事にならなければちぐはーぐになってから、ほんとの事にならん。言われてからでしたっちゃ(まねようじゃ?)なか、絶対ちぐはぐになる、ね。まあいわゆる、真心が表されていかなければ、ね。

 ね、神に会おうと思えばと、いう事をです、ね、本当にそこに神様に会える。例えば、こうやって、ね、こう人間と人間がこう相対したように、まあ言うならば10年ぶりにおうた人、ようにです、はあ珍しいとこう手を握り合うてです。「お久しゅうございます」と言えれるような実感がです、神様と、日々の中になかりゃいけんというわけなんです。

 ただ漠然とです、ね、天地を見てから(あたくしどもが拝む?)神様はこの神様だと言うとるだけではいかん。だからその天地の働きをです、そこに、表すだけの信心というのは、ね、言うならば、実意丁寧おもとるだけじゃいかん、おもとる事は表していく、ね。ね、本気で、純粋な心で、または素直な心で、実意丁寧な心で、それを行の上に表していく所にです、そこに、神様を見ることが出来る、いわゆる神様の手を握りおうて、お久しゅうというような事になってくる、ね。

 あたしは金光様の、あのー、もう信心のもう観念的なもの(であっても?)どこまでも実感のものでなかじゃいかんと思うです、ね。そういう実感のものでなからなければです、いわゆる、「信心してみかげのあるを不思議とは言うまじきものぞ」と仰るような、ね、不思議なまでの働きをそこに、見たり聞いたりすることは出来ません。(それ?)見たり聞いたりするから、なるほど、いつも神様と共にあるんだなあという、事が出来るのであります。

 まあ、それぞれの、いわゆる手元の所でです。ね、例えば(?)の若先生の結婚式なら結婚式というような事でも、それぞれの立場で、ね、えー、「どういう風になりよるだろうか、何かあたくしどもでもちょっとした御用でも出来ることはないだろうか」というようなですね、これは大祭かなんかっちゅうならもうちゃんと、もう決まりきった事をささーっと御用さして頂く。

 (今度は?)全然違った事、初めての事、どうしていいやらわからん、わからんなら思うておるだけじゃいかんから、聞かにゃ。「何かあたくしどもに出来ることは無いでしょうか」と、「何かその前に事を運んどくような事、あたくしにも出来る事は無いだろうか」と、言うようなです、あたしは(せっきょうきしょう?)が無からなければそこに神様を、いわゆる何事にも信心になるということになっちゃいかんと思う、ね。

 もう、ちゃんと(ご祝儀だけはさせられとるけんて、?)ただ普通のとこするのじゃないと、ね、皆が一緒に大祭と同じ、言わば、祝賀会というような事になってくるのですから、同時に今度は、あー、その信心の無い人達を対象としての、おー、大変な事をするのですから、信心のある者が、そこの所の御用をさしてもらうといったようなね。何事にも信心になれよです。信心のある者とただ思うとるだけで、どうも出来る事じゃない、ね。

 ああもう、さあ明日に明後日に結婚式控えたって言うてから、そして、さあ(お掃除、お掃除、?)張り替えて、もうその頃ね親戚なんてもうどんどん、んー、呼んどることになっとる、ね。だからいわゆる前にちゃんと、する事だけはしとかにゃいけんという風に、あたくしが思うわけ。だから、その思いをです、いうならあたしは高橋さんと(?)さんに昨日言うた、ね。

 そしたら、その皮肉というのは、全然それを聞いてない秋永先生の心の中に、響いていった、ね。(あたしこの人は?)万力だと思うんです、ね。要するにそれは(通わんか、かえよらん?)か知らんけれども、ね。変えよるならば、あたしは言わないかんと思う、変えよるならば、それを行わにゃいかんと思う、ね、変えよるなら、お取次ぎの中にいかんと思う。あたしは昨日申しました、この結婚式なら結婚式の事でもです、例えば委員長なら委員長が、そのことをお取次ぎを頂いて、(前に来て?)それほどの内容に、と言うてお取次ぎでもねごとるなら、あたしゃいっちょも心配せんっち。

 あんたね、あたしは自分自身をお取次ぎさして頂いてと思ったら次の働きと言うものは、それぐらい確信しとる、ね。あたくしは先生方に、今日は月例祭と言う時が、今日の月例祭にどうぞまずご無礼がないようにと、おー、いうお届けがあっとる時にはもうなーんにも、神饌室を覗く事も事もいらん。

 けれども、お届けをしてない時には、果たしてこの場で月例祭が出来るじゃろうか、お供えもどげんなるじゃろうかとおもてから、神饌室に行ったり来たりせなきゃならない、ね。ここはほんとにお取次ぎを頂いて、(御用面?)のその、例えば、いわゆる真を表していくというその、までですね、お願いしていかにゃ、ね。

 そこに、あたくしは神を見る事が出来る、ね、神に会う事が出来る。そこに、なるほど、お取次ぎを頂いて、ね、忙しい中から心がけさして頂きよるが、そこに、ね、何とはなしにあれもこれも成就していくというような働き、御用の尊さ、御用の有り難さ、というものを御用するから有り難いのではない、御用させて頂くかたそばにです、神様の働きを実感するから御用がありがたいのである、そこに神様を見る事が出来るから有り難いのである。どうぞ。



 明渡 徳子